企画の考え方について
こういう文章は、本来自分の中にひっそりとしまいこんでおくべきもので、授業で話したり、ましてやこんなインターネット上のテキストデータとして置いておくようなものじゃないのは百も承知だが、今まで多くの学生の製作現場を見てきた経験から、学生の皆さんが自分の作品を考えるときの手がかりになるものを何か提示するべきなんではないだろうかと考えてきた。ここに書いたのは、現在の僕の考えであって決して押し付けるつもりはない。僕自身も数日経てば、考えが変わっている可能性は十分にある。同意する部分は取り入れ、同意できない部分はあっさり切り捨てて、制作の手助けにしてほしい。整理しきれていない駄文だけれども、こういうことを書く人はあまりいないような気もするので恥ずかしながら掲載しようと思う。
企画とはテーマの切り口である
世の中には面白い作品や商品、サービスなどがたくさん存在している。それらは、自然に生まれたものではなく、誰かが考え制作したものだ。それら制作物の元になるもの、-アイディアーが企画だということができるだろう。僕たちクリエイターは、世の中に面白い提案をしたいと考えている(と思う)が、まだ学校を出て活動した経験の少ない学生の皆さんは「企画」というと難しそうとか面倒そうという感触を持ってるのではないかと思う。たしかに、絶品の企画、最高に面白い企画を考えるのはかなり難しい。しかし、作品を考えること自体はそんなに気負って構える必要はないと思う。作っているうちにだんだん面白くなっていくものもあるし、勘所を外していなけれればそんなに酷いものにはならない。重要なのは「コレ、オモシレー!」の精神である。大事なポイントは「コレ、オモシレー!」という勢いというかポジティブさだと思う。自分が面白いともやってみたいとも思わないようなものをテーマにしても面白いわけがない。自分がオモシレー!と思うテーマを選べば、そんなに外すことはない。難しく考えることがオモシレーのならば、とことん考え抜き、研ぎ澄ました思想・思考によって構築すればいいし、バカバカしいものがオモシレーのならば、とことん自分をアホ(バカ)の境地に追い込み、自分をさらけ出してでもバカバカしいものをやればいい。要はオモシレーものを見つけたら、見逃さないこと、そしてそのオモシレーアイディアを自分ならどう料理できるのかを冷静に考えること、それが企画である。
テーマを料理すること、つまりテーマの切り口を提案することが企画といえる。作家によって切り口は様々で、例えば、「湾岸戦争」をテーマに、宮崎駿監督がアニメーション映画を作ったとする。さらに、周防正行監督がコメディ映画を、宮沢和史(ブーム)が歌を、どこかの料理人が創作料理を、どこかの建築家が建築を…と表現方法、制作環境、制作技術、思想、哲学が人それぞれ違うため、出てくる作品はそれぞれバラバラなものが出てくるに違いない。戦争がテーマなら、国によって主張なども相当変わってくるだろうし、兵士と一般市民でも意見は違ってくるはずだ。「湾岸戦争」というテーマを扱ったときに作家によって「切り口」が違うため見えてくる断面が違ってくるところが面白いのだ。テーマという大きな塊から切り出された一部分が作品と解釈してもいいだろう。ニュースなどでよく取り上げられているところを扱ってもいいかもしれないし、テレビ報道などではほとんど注目されない部分を切り取っても面白いかもしれない。しかし、どれが正解というものではないのはよくわかると思うが、面白いものと面白くないものが出てくるのも想像できるんじゃないだろうか。そして、その評価は見る人によってかなり違いがでるのである。
一応、企画書についても書いておこうと思う。僕は企画書をつくることが本職ではないので、企業で扱う企画書について精通しているわけではないけれども、要は「オモシレー」ものを実現するために必要な手順や環境を整えるには、もしくは構築するにはどうすればいいのかのアイディア・提案を書いたものだと思っていい。この提案がどう「オモシレー」のか、どんな準備が必要なのか、設備は?予算は?人員は?予想される利益は?などなど、企画内容を相手に伝え、説得するためのツールが企画書である。
おもしろい作品とは
面白い作品とはどういうものだろうか。面白いといっても、様々なとらえ方があり、人によっても様々だと思う。おそらく唯一の答えなど無いのだろうが、それでは狙って面白い作品を作ることはできないことになってしまう。しかし、コンスタントに面白い作品を発表し続ける作家もいるし、多くの人が面白いと口を揃えて言う作品も存在する。と、いうことは、面白い作品を考える鍵になっているものはおそらく存在するのだろう。それを探ってみたい。
共感
「面白い」ことの条件の一つに「わかる」ということが考えられるのではないだろうか。「わかる」というのはいろいろな意味があると思うが、言語理解のレベルで考えてみる。英語が苦手な人が、吹き替えも字幕も無い映画を観る場合、俳優の動きやカメラワークなどを頼りに映画の内容を読み解くしかない。初期のチャップリンの映画作品のようにもともとセリフが無くパントマイムで魅せる内容であれば別だが、お話を楽しみにしていた場合、ほとんど満足できないだろう。15秒くらいの作品であれば、内容が意味不明でも映像にインパクトがあれば十分面白いが、2時間や3時間も拘束されるような劇場映画であれば、ストーリーが不明のまま観れるものではない。普通の人なら寝てしまうか、退出するに違いない。面白いどころか不快なものになってしまう。
視点を少し変えて研究目的に映像を見る場合は少し違ってくる。野球選手の投球フォームを熱心に探っているとする。何度も何度も同じ映像を繰り返し、何時間でも飽きることなく見続ける人もいるだろう。そこには、「わかる」心理が働いているんじゃないだろうか。見抜きたい、理解したいという欲求が映像を見る動機になっている。これは、面白い作品によくみられる要素である「謎」と同じ働きをしていると思う。ただ、この例の場合は作品側から謎が提供されているのではなく、見る側が自発的に謎を設定している。野球に全く興味がない人に投球フォームの映像を1時間リピートして見せたら、かなりの確率で寝てしまうか、怒り出すだろう。
「わかる」というのは大きな意味で「共感」性があると言い換えることができると思う。人は自分を分かってほしいと無意識に考えている。というか、自分の意見に賛同してくれることは快楽である。逆に否定されることや拒否されることは不快に感じる。共通の趣味を持ってる人とは話が弾むだろうが、趣味や嗜好に全く接点がない人と会話をし続けることはかなり難しい。大人になれば、だいたいの人はみんなそのことを知っているはずだし、苦い経験をしている人も多いはず。誰とでも話が盛り上がる人がたまにいるが、そのためには、豊富な知識を持っていることと相手を否定や拒否をしない寛大な心をで接することが必要で、性格的に温和な人か会話テクニックとして実践している人である。あの人は自分のことをわかってくれるというのは、相当好意をもてるポイントで、これは作品でも同じことがいえる。メッセージ性が強ければ強いほど、自分と同じ思想の作品には共感を持つことになる。
アニメや漫画の二次創作と呼ばれる同人作品が成立してる要因に、この「共感」が挙げられる。素人が描いたたいして面白くないストーリーや上手とはいえない絵であっても、見てくれる人がいるのは、元ネタになっているアニメや漫画が存在しているからだ。元ネタの作品のファンであれば、「わかる」キャラクターやネタがあるだけで、視聴する理由が存在しうる。何かの二次創作であるという時点ですでに「共感」の要素を持っている。
「共感」は「ジャンル」「地域」「時代」「趣味」など共通話題を持てる場所やタイミングが重要なカギになる。たとえば、ある時代に面白いと言われていた作品も時間が経てば忘れられてしまうし、逆に昔の作品が急に脚光を浴びることもある。美術に興味のある人は美術作品を嗜好し、娯楽に興味のある人は娯楽を嗜好する。その嗜好性が高まるほど、一般性が薄まり、一部の人だけに歓迎されるものとなる。つまり、あるジャンルのオタクはそのジャンルのオタクにしか理解されない。
一般性の高い「共感」を持てるネタを見つけないかぎり、誰が見ても面白い作品にするのは難しい。とりあえず、人間の誰もが興味を持っているネタは、本能的な欲望に関することだろう。食、性、知、生、死、破壊などから、金、成功、人生、愛憎、戦争…などへ膨らんでいくのが思いつくが、ほとんど全ての娯楽作品がこれらの要素を持っていることに気づくのではないだろうか。
意外性
意外性は作品にとって、かなり重要な要素の一つである。意外性は相手の注意を引くからだ。作品性を「動」と「静」にわけるとすれば、意外性は「動」といえる。人間は動きのあるものに注意を向ける習性があるのはご存知だろうか。僕たちは、目で常に周りを見ているけれども、全てが「見えて」いるわけではない。電気刺激としては、視神経から脳に風景の情報は入ってきているが、意識には上らない部分が存在している。通常時は見ているつもりで見えていない部分がほとんどなのだが、視界の片隅で何かが動くと敏感にそれを察知する仕組みになっている。そして、一旦、意識レベルで重要度が上がったものをすぐ忘れることはできない。作品においても、同じような効果が存在すると思う。しかし、ずっと「動」ばかりだとそれもまた意識レベルでは低い扱いになる。画面全体が動き続けている中で一部分が止まっていれば、そこが相対的にみて「動」になるのだ。
ちょっと違う視点での「意外性」として、僕たちの常識を覆すものもまた「意外性」の高いものといえると思う。例えば、コラージュ作品とかで、人間の頭が鳥に挿げ替えられているような写真などは、意外性を狙ったものだといえると思うが、そういうものばかりを見せられているとそのうち慣れて陳腐化する。動きのスピードが異様に速いとか遅い、色が違う、大きさが違う、音が違うなどいろいろあるけれども、どれも最初はインパクトがあるが、そのうち飽きる。料理の調味料のような働きをもっていて、バランスが重要だといえる。うまく組み込まれていると、視聴者の注意をひきつける働きを持ち、作品にスパイスを加えてくれるが、やりすぎると気持ちわるいものになる。
刺激
刺激は上の意外性と親密な関係にあると思うが、常識とは直接的には関係なく、僕たちの感覚にどれだけ響いてくるのか、そのレベルを表しているんではないだろうか。音が大きい、音程が高い・低い、色の彩度が高い、明暗が激しいなど僕らの五感にどの程度響くのか、もしくは、涙腺が緩むとか、腹がよじれるとか、恐怖、緊張などの感情に訴えるものなどが作品の「刺激」として考えられると思う。
この刺激についても、ただ刺激が強ければいいというものではなく、バランスが重要で、刺激の強さのリズムをコントロールする必要があるだろう。音楽や映像など時間軸上で進行する作品であれば、作品のはじめから終わりまでの間にどのように刺激を配分するのかが演出上、重要な要素となる。例えば、出だしに強い刺激のあるシーンを持ってきて視聴者の興味を引き付けた後、刺激を弱めて進行していくとかである。視聴者の心拍数を意識してもいいのかもしれない。人間はずっと心拍数を高め続けることはできない。心拍数の高低をコントロールする。緊張と弛緩をうまくコントロールすることが重要なのかもしれない。
社会性
僕たちは、どこかの社会に所属している。例えば、僕の現在の所属している社会は、地球、日本、近畿、関西、京都や滋賀、成安造形大学、名古屋造形大学、CGクラスなどなど、他にもCGクリエイターとしての側面や、教師としての側面、30代男性としての側面、独身男としての側面など様々な社会的立場を持っている。日本の社会的立場も環境学的な立場や、戦略的なもの、政治的なもの、経済的なもの…など様々な立場がある。どこに視点を置くかで、社会の見え方は変わる。作品制作において、視点をどこに定めるかで周りの見え方は変わってくるはずだ。社会性とは、視点とその周りの関係性のことだと思う。どのような作品も何かと関わっている以上、社会性を免れることはできない。
美しさ
作品において、「美しさ」は安定感や安心感、居心地の良さなど作品の品質を高める重要な働きを持つ。しかし、美しさは一筋縄に言い切ることがとても難しい側面を持っている。美しい造形や音などは、絶対的価値観でいうことができない抽象的なものだからだ。何を美しいとするかは、社会的、文化的な影響をかなり大きく受けている。国によっても判断基準は違ってくるだろうし、年齢や性別、そのときの心情など様々な要因によっても変わる。しかし、それでも「美」はたしかに存在する。
美しいものを作るというときにはバランス感覚が重要な位置を占めている。どこで使うものなのか、いつ使うものなのか、どのように使うものなのか、などを考慮しベストだと思う創作をするしかない。先ほども述べたが、絶対的に美しいものというのは存在しない。僕たちの感覚はバランスで、相対的な判断で物事を感じている。ということは、醜いものがあって、美しいものがあるということになる。美しいものが並んでいるとすれば、その中でより美しいもの、醜いものが表れてくる。
そのことを積極的に利用するならば、美しいものを表現するために、醜いものを用意しておくということもありうるということだ。例えば、みんなの知ってる例として「ドラえもん」を思い浮かべてほしい。しずかちゃんはかわいくて人気者で、ジャイアンの妹のジャイ子はどっちかといえば、そうではない女の子である。(しかし、人によっては、ジャイ子こそがかわいい女の子だとする人もいるだろう。)物語において、ヒロインやヒーローを美しいものとして描くとき、その対象となるものを用意しなくてはならない。成長する物語であれば、最初は醜いものだったが、徐々に美しいものへと変化していく過程が物語となる。
僕たちは人間である。その姿・形、声、血液、運動能力、思考、心臓の鼓動、二つの眼球によって見える風景、肌に感じる風、などなど、結局は僕たちの身体を通して得られた情報が全ての基準になっているのだろう。「美」もまた、その例外ではないはずだ。気持ちのいい造形、気持ちのいいリズム、気持ちのいい色…それらは、人間であるからこそ、そう感じているのだ。
オリジナリティ
美術教育において、オリジナリティの尊重はかなり比重が大きいと思われる。よく個性的という言葉を目にするでしょう? しかし、オリジナリティであることが本当に素晴らしいことなのだろうか。真のオリジナリティを発揮した作品は、他人には理解不能である。僕たちがコミュニケートできるのは、同じ人間であるからに他ならない。同じ国民であればなお一層理解しやすい。同じような感情の動きや、同じような経験、同じような感動を味わえるからこそ、作品を通じて意思疎通が図れる。上の共感で述べたことと同じことである。それらに全く接点がなかったら、僕らはその表現に対して、なすすべを持てない。つまり理解不能だ。オリジナルというのは、他に類似するものがないということ。実は、オリジナリティのある作品を作ることは全然難しいことではない。要するに、今までにないものを作れば、それがオリジナルである。自分で考案した言語、自分で考案した表現媒体、自分で考案した記号…それらを組み合わせれば、他人に理解できないものを作れる。しかし、そのようなものにどんな価値があるというのか。自分は宇宙人だ!と他人に信じてもらうという目的であれば、有用かもしれないが。
完全なオリジナルに意味がないからといって、同じものばかり作っていても仕方ない。上で述べた意外性や刺激などでも述べたが、同じものが並んでいても面白くないし、陳腐化する。そこで、やはり今までにない刺激が必要になるのだ。新しい思想、新しい発想、新しい技術、新しい音、新しい造形…。そこがオリジナリティである。既存の表現の中にオリジナリティを組み込んでいく。オリジナリティは諸刃の剣といってもいい。表現の目的がコミュニケーションならば、相手と共感を得られる範囲内でオリジナリティを発揮する。オリジナリティが強すぎると理解されない。そのまま埋もれるか、早すぎた傑作となる。
謎
謎、つまりわからないことも重要な要因である。今までに書いてきたことと矛盾することもあるが、わかるだけでは物足りないのだ。僕たちは知的探究心というものを持っている。わかりたい、どうなってのよ!? という心が作品を面白くする。しかし、ただ意味不明な部分を作れば、いい謎になるわけではない。興味をそそられる部分を謎にすべきだ。
謎は解明できるレベルのものから、解明不能なものまで様々ある。簡単な謎の例を出すと、「1+1=?」は「?」の部分が謎になる。文章の例でいうと「私は○○さんが好きです」だと「○○」の部分が謎になる。前の方の数式の例は答えが誰でもわかるから、謎レベルが低いので興味の関心レベルも低いといえる。後ろの文章の例は、答えが提示されない限り、もしくは限りなく答えに近いヒントが提示されなければわからない。用例は様々なものが考えられるが、?や○などの完全理解の中で欠けている部分が謎である。
僕たち現代に生きる人間ならば、誰でもが抱える謎もあるだろう。例えば、宇宙の果てはどうなってるのか、などは、様々な理論が入り乱れているがその答えは出ていないから、本来は回収不可能な謎であるが、SFなどの架空のお話であれば空想の科学理論を提示することで回答可能になる。謎を扱う代表的なものとして、ミステリー小説などは、謎をどう解決していくのか、その過程が作品である。
絵画や彫刻などでも、謎は発生する。しかし作者側から提案された謎ばかりではない。『モナリザ』に付随する謎などは、研究者たちから提案されている謎で、自分で謎を作り出し、その答えを考えることを楽しんでいるのだ。
補完
上記の「謎」の話にかなりリンクした話題なのだけれども、欠けている部分を補完することも面白さの重要な要素だと思う。
完全な状態、バランスの取れている状態という安定した状態は変化の起こらない世界である。視聴者に安定感、安心感をあたえる。しかし、変化がない状態は退屈に感じてしまう。意外性のところでも書いたけれども、人間は動きを感じ取っている生き物で、静の状態は脳が活性化しない。たとえば、無音状態を作る部屋に閉じ込められると、外界から何も音が入ってこないので、音は安定状態にある。だけれども、人間はその状態に耐えられないため、幻聴という形で音を作りだすのだ。無音室に閉じ込めるというのは、拷問のひとつとしてもあったらしい。しかし、別の考え方をすれば、視聴者の中で本来無いはずの音を作り出していることから、視聴者の体が作品化しているともいえるかもしれない。
一般的なストーリーも同じような理屈で成立している。平和な状態から、事件が起こり平和ではない状態に陥るところから物語は始まり、平和な状態に戻そうとする動きが起こる。つまり欠損部分を補おうとする動きの記録がストーリーといえる。バランスが取れている状態では動きが生まれないのだ。何らかの欠落部分の発生が物語の発端となる。
人間は恒常性という一定に保とうとする働きを持っている。何かバランスを崩したり、欠落する部分があるとそれを元に戻そうとする働きで、水分が足りなくなれば喉が渇き、傷ができるとそこを修復する。精神的にもストレスがたまればそれを吐き出そうとしたり、物理的にも精神的にも欠落したり余分な部分が生まれるとそれを元の状態に復元しようとするのだ。
基本的にアクシデントや障害はあってほしくない出来事だけれども、そこに行動する動機も生まれる。逆境は不幸な状態であるが、そこで行動する意思を失わなければ生命の輝くときでもある。この「補完」は作品を面白くするために、おそらく必要な要素の一つだろう。
タイミング・場所・目的
作品をどのようなタイミングで、どのような場所で、どのような目的・用途で発表するのかは非常に重要なポイントである。作品は、いつでも、どこでも、どのような目的に用いても同じ効果を発揮するものではない。同じ作品でも提示する場所が違えば、見る人も違うし、見る人の視点も違う。
人間はいつでもどこでも同じ人格ではない。つまり、いつでもどこでも同一の私というものは存在しない。具体的に言えば、僕は、実家に帰れば両親の息子であるし、学校に来れば教師である。街に出れば、一歩行者であるし、お店に入れば、一人の客となる。さらにいえば、何年か前の僕はアメリカに住むアジア系外国人であったし、映画製作会社の一員だった。人はそれぞれ場所や時代によって顔が変わる。そして人格も変わる。場所によって発言する内容も変わる可能性だって十分にありうる。上司の前では敬語でヨイショしているサラリーマンも、同僚と飲みながら会話してたら上司の悪口を言っているかもしれない。男友達の間では「俺さー…」とか言ってる男の子も、彼女の前では「ぼくちんね…」とか恥ずかしい幼児退行してしまう人だっているだろう。それぞれの場所では、作品を見たときに感じる内容はだいぶ違うと思う。つまり、人は自分が思っているほど一つの人格を保持できないということだ。
(余談になるけど)よく自分探しとかいう人がいるが、実のところ本当の自分というのは自分でしかない。自分以上の自分というのは存在しない。絵が下手なのに、自分を見つけたら絵が上手くなるということはない。絵をたくさん描いて上達すれば、絵の上手な自分に変化させることはできるというだけのことだ。不変の「私」というものはいない。「私」は常に変化し続けている。今の自分が気に入らないのなら、自分が気に入る自分に変化させるしかない。
これらのことは、作品を見るときにも影響を与える。美術館で作品を見るときと茶の間でダラーっとしながら見るのでは全然違うものになってしまう。インスタレーションという表現スタイルが存在するが、本質的にはすべての表現はインスタレーションである。見る場所によって、人はその作品に対する評価がかなり変わってしまう。作品をどのように発表するのか、いつ発表するのか、どのような用途のものとして発表するのか。よく考える必要がある。
需要と供給
世の中で求められていることは何か、そして自分にできることは何かを考えることだ。需要は、いくつかのレベルが存在していると思う。
最上位レベルをレベル3とすると、これは誰でもが求めている絶対に必要なもの。食べ物とか愛情とか空気とか職場とか金とかそういう類のもの。次のレベル2は、無くても困るわけでもないけど、是非ほしいもの。日頃楽しみにしてる娯楽とかだ。レベル1はあっても無くてもどっちでもいいけど、与えてくれるなら嬉しいというもの。衝動買いしてしまうようなものはこの部類に入るのかもしれない。さらに次のレベル0は、まだ発掘されていないけど、気づかされるとほしくなるもの。例えば、携帯型の音楽プレイヤーというものが無かった時代は、音楽を外出先で聴きたいなんて思わなかっただろうけど、その良さに気づかされると手放せなくなる…といった部類のものだ。
このように世の中には人々が欲している様々なものがあり、また提案すれば欲しいと思ってくれる可能性が存在している。需要のレベルによって、供給の仕方や扱いはかなり変わるし重要度が違う。そういった中で、僕たちはどういった供給ができるのか、ということを考えることも重要だろうと思う。
ギブ&テイクの精神
僕たちは一人で生きているわけじゃない。直接的に知っている人同士でなくても、それぞれが支えあって生活している。その仕組みを整えているのが習慣であり経済であり政治だ。現代社会の中で生きている限り、自分は何かを与え、他人から何かを与えてもらっている。これは、アートやデザインにおいても例外ではない。新しい発想や思想、着想を考え出し、他の人がそれを元に発想や思想、着想する。この連鎖が文化だ。何かをもらったら、相手に与えること。この循環が滞りなく行われることが健全な文化・社会の状態だと思う。だが、利己的になりすぎると、この循環がおかしくなる。俺だけが目立ちたい、俺が一番得したい、俺が面白ければ他はどうでもいい、俺が…。こういう人が混ざると循環が止まってしまう。自分を大切にすることは何もおかしいことではないが、自分しか見えていないのは問題になる。ちょっと考えればわかると思うが、こういう自分ばっかりの人は生き残れない。なぜなら、社会の中で循環を阻害する邪魔な存在でしかないし、他人にとって魅力的ではないからだ。積極的に与える精神で臨むこと、これも優れたクリエイターの条件であり、作品や企画に必要な条件なんじゃないだろうか。